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沢 知恵の自叙伝 「私と音楽」 ダイジェスト

コモエスタプレスでは「私と音楽」と題して沢 知恵書き下ろし自伝を連載中です。ここでは各号の「私と音楽」の冒頭の部分をダイジェストで紹介します。本文は、ときには6ページにもわたり知恵節がつづられている、読みごたえのある内容になっています。もっともっと読みたい人は今すぐ購読申し込みを!

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コモエスタプレス1998
私にとって最初の音楽は、ほとんどの人にとってそうであるように、母のうたでした。母はうたうことがけっして上手ではありません。はっきり言って、いわゆる音痴です。韓国人は概してうたうこと、踊ることが好きです。アメリカの黒人がバスケットボールを上手にするように、韓国人はおうたが上手。もちろん、黒人にもバスケが下手な人もいるように、韓国人にも音痴はいるのですが。それがうちの母のなのです。音痴なのにうたうことは好き。大音量でうたいます。だいたい音痴の人は音痴である自覚がない。(0号より)

私の母は、1970年2月14日、単身韓国から日本にやってきました。ソウルの延世大学の大学院に留学した日本人の父に学部生だった母が見初められ、CD〈Who am I?〉に収録されている《パパとママの恋物語》の通り、海を渡った花嫁としてやってきたのでした。私も結婚してわかったことですが、結婚とはまさに異文化体験。日本人同士が結婚しても、毎日のように「えっ、うそー?」と驚かされることの連続で、衝突と歩み寄りを繰り返しては徐々に暗黙の秩序が築かれるものなのだなぁ、と実感しています。それもそのはず。夫婦とはしょせん他人なのですから。お互いに生まれ育った背景の異なる者同士がいっしょになることは、並大抵のことではありません。愛なくしてどうしてそんなめんどうなことが続けられるでしょう。(創刊号より)

子守唄といえば、思い浮かぶのはやはり母の声。私の父はいわゆる九州男児で、学校教育には熱心でしたが、母親がすべきことは女がすると決め込んでいるタイプでした。幼いころに父にうたってもらった記憶はあまりありません。それでも職業柄(牧師)、背筋をピーンとのばして眉間にしわを寄せ、私にはとうてい意味のわからない文語調の讃美歌をうたうことはありましたが、妙にかしこまってしまうのです。うたうことが生活に近いのはたいていお母さん。最近は男が育児ををするようになってきているようで、もしお父さんがもっと子守唄をうたうようになったら、こどもたちのうたも変わるのではないかと思うのですが。声が低くなるとか…。
(2号より)

私があのままどこにも行かず韓国で育ったとしたら、今ごろはどんな道を歩んでいただろうか。人として、女としてどうなっていただろうか。音楽とはどうつきあっていただろうか。どんなうたをうたったのだろうか。ソウルの街をあるきながら、同い年くらいの女の人とすれ違う度に、そんなことを考えます。
(3号より)

1977年の夏、韓国の国民学校で1年生の1学期を終えたばかりの私は、父の留学に伴ってアメリカに行くことになりました。父38歳、母29歳、妹5歳。うちはいつでも家族4人いっしょです。せかいのあちこちに行ったというと、お金持ちのお嬢さんのように思われがちですが、とんでもない。牧師は冠婚葬祭や副業などで儲けている例を除いては、たいてい貧乏です。でも、貧しいなりにいつもいっしょにいられたことはありがたいです。お金持ちでもいっしょにいられないこともあるのですから。
(4号より)


コモエスタプレス1999
アメリカの教育は日本のものとはあまりにもちがいます。私は最近、「アメリカ万歳」を卒業して、日本もアメリカもそれぞれいいところ悪いところがあるんだなあ、と思うようになりましたが、それでも教育に関しては、日本がアメリカに学べる点がたくさんあると思います。(5号より)

両親がともにキリスト教の牧師だったので、物心ついたときには教会にいました。聖書に讃美歌、お祈りは、宗教というよりまるで家の文化として私の中に刻みこまれてきました。自分ではそれほど熱心なクリスチャンだとは思わないけれど、それでも魚屋の子どもが魚に、たばこ屋の子どもがたばこに詳しいように、私は「教会屋」の子どもとしてそれなりの知識と経験をもっています。
(6号〜ゴスペルとの出会い〜より)

夢のようにすぎたアメリカでの2年間に別れをつげ、沢一家は韓国に戻りました。毎日がディズニーランドにいるかのように楽しくて去りがたく、私は最後まで車の中でビービー泣いていたそうです。その涙が暗示していたかのように、帰国後間もなく私の運命をがらりと変えるできごとが起きました。1979年夏のことです。
(7号〜運命のわかれ道〜より)

いつもいつもピアノがありました。うちはそれほど裕福ではなく、どちらかと言えば貧乏だったはずなのに(大きくなるまで知らなかった、知ってびっくりした)、どこに引っ越しても最優先でピアノがあてがわれました。感謝、感謝です。
(8号〜新品のピアノと練習〜より)


コモエスタプレス2000
私の小学時代は1977年から83年です。ピンク・レディー、山口百恵が引退し、松田聖子全盛時代へと突入します。アニメでは、キャンディキャンディ(なぜか私はテリーが苦手だった)やエースをねらえ(ムナカタジンが大好きだった)の再放送の時代です。ベストテン、トップテンには必ず聖子ちゃんが登場し、甘い歌声で松本隆ワールドをうたっていました。アメリカでサタディ・ナイト・フィーバーにすっかり打ち興じていた私は、小学3年ではじめて日本のポップスに出会います。それが松田聖子をはじめとするアイドルのヒット曲とアニメソングなのです。日本語はうまく話せなくても、テレビで流行るうたはたちまちうたえるようになりました。音楽の力は恐るべし。(9号〜松田聖子とアニメソング〜より)

先日友人に、「私裁判で原告になったことあるんだよ」と言ったら、びっくりされました。そりゃ、そうだよね。もし友人が同じことを言ったら、私もびっくりして、「何で?いつ?訴えた相手はだれ?それで勝ったの?」根掘り葉掘りきくにちがいありません。今回は音楽とは関係のない話ですが、私を知ってもらう上でとても大事なことなので、書くことにしました。
(10号〜日曜日訴訟〜より)

江戸川区立小岩第一中学校時代は大忙しでした。ブラスバンド部と演劇部のかけもち、プラス放送委員会と生徒会。エネルギー過剰は、すでにこのころから抑えられないものだったようです。いつも複数のことにかかわっていないと気がすまないのは、今もかわりません。そのくせ、けっこうぐうたらで抜けているところも、変わっていません。
(11号〜中学から高校へ〜より)

ニューヨークから南に車で2時間。ニュージャージー州ヴェントナーは東のラスベガスといわれるギャンブルの町、アトランティック・シティーの隣にあります。大西洋を臨み、海岸に沿って長く伸びるボードウォークは有名です。私たちの家は海から2ブロックのところにあるOMSC(Overseas Ministries Studies Center)、海外宣教師研究所の一角です。文字通り世界中の宣教師が集まって、宣教活動の合間に一休みする保養所としての役割を果たしていました。
(12号〜アメリカの高校〜より)


コモエスタプレス2001
アメリカの高校ならどこでも、学年が終わる初夏にプロムパーティーがあります。プロムは大人の社交界にデビューする儀式のようなダンスパーティーで、女はドレス、男はタキシード。アカデミー賞の授賞式のままごとみたいな感じを想像してもらえればいいと思います。高校生ったって、日本と比較しないでね。アメリカの高校生はうんと大人っぽいんですから。(13号〜はじめて泣いてくれた人〜より)

SAI(Summer Arts Institute)には、ニュージャージー州全域から、あらゆる芸術分野を目指す元気な高校生がたくさん集まります。不思議なことに、だれが何を志しているのかが、一目でわかるんです。例えば、ダンス科の子は背筋をぴーんとのばして大股で歩き、長い髪をドアノブのように後頭部にちょこんと丸めています。美術科の子たちは物静かで、サファリ系のバギーな綿の服を着てだらだら歩きます。ジャズ科は黒人が多く、マイルスやコルトレーンの若いころを彷彿とさせるルックスの子もいます。演劇科と詩科の子は見分けがつきにくかったかな。いつもキョロキョロしていたような。
(14号〜ジャズとの出会い〜より)

ジャズと出会って衝撃を受けたものの、小さいころから弾いてきたのは、クラシックピアノです。得意なもので勝負するしかありません。すすめられるままにいくつかのピアノ・コンクールに出場し、入賞こそしなかったけれど、アメリカ東海岸の名だたる音楽大学の入学資格をいくつももらいました。
(15号〜アメリカから日本の高校へ〜より)

15歳の秋には、生まれて初めてのソロ・ピアノ・リサイタルをし、周りは「あの子は将来、クラシックピアニストになる」と信じてうたがいませんでした。あのままアメリカにいたら、おそらくその道を進んだのでしょう。ただ、私ひとり心のなかで、「クラシックとはいずれさよならすることになるだろなあ」とつぶやいていたのでした。
(16号〜アメリカから日本の高校へ〜より)


コモエスタプレス2002
夏に胃がんの手術をした父は、その後回復に向かいつつあるように見えました。当時私たちが住んでいたのは、寅さんの故郷で有名な葛飾柴又です。父は退院して自宅療養しながら、ライフワークである研究のつづきにいそしみました。大食いだったのが、食が細くなったのと、おならや便通があるたびに大喜びをすることを除けば、以前とそれほど変わらない生活に戻っていきました。(17号〜父からの最後の手紙〜より)

「音楽とは何ぞや」を究めるために、大学では音楽学を学びたい。父の病気によって、状況が困難になればなるほど、両親に反対されればされるほど、私の思いはあつくなっていきました。
そんなある日、母がたまたま友だちに、「うちの娘が音楽学をやりたいって言って聞かないのよ」と愚痴ったのがきっかけで、とんだ展開になりました。その人が、「あら、私、そういうところに入るための塾知ってる」ということになったのです。音大受験には父よりも強く反対していた母は、その友だちに勧められて、私を三鷹の国際基督教大学(ICU)キャンパス内にあるその塾に連れて行くことになりました。母としては、せめて音楽の世界の厳しさを思い知って、私があきらめてくれるきっかけにでもなれば、と思ったようです。火に油とは気がつかなかったのかしら。母は娘を甘くみていたようです。
(18号〜父の死〜より)

幼稚園初日の子どものように、涙がちょちょぎれそうでした。高三の春、東京芸大楽理科受験の専門私塾、中内塾での第一日目。三鷹のICU(国際基督教大学)キャンパス内にある、アメリカ風の教員住宅の広い居間に、三十人くらいのお嬢さまが勢ぞろいしています。男の子は二、三人しかいません。みんな見るからに育ちがよさそう。頭もめちゃくちゃよさそう。口数が少なくて、お人形さんみたいに微笑んでくれるんだけど、な〜んかこわ〜い。雰囲気に圧倒されて、私は瞬間冷凍で固まってしまいました。「あ〜ん、早く帰りたいよ〜。お母さ〜ん(自分の母を呼んでいるのではなく、感嘆詞として)!」と心の中で叫んでいました。日本は下町の江戸っ子文化しか知らない私には、ここも日本かと思うほどのカルチャーショックだったのです。でも、父の遺言で後押しまでしてもらって芸大受験を宣言してしまったからには、もう後には戻れません。
(19号〜受験生〜より)

高三の秋、しばし受験生は小休止です。高校最後にして最大のイベント、両高祭でフィーバーしました。後夜祭は毎年三年生の独壇場だったのです。そこでトリをとれるかどうかは、今にして思えば、グラミー賞をもらえるかどうかというくらい、当人たちにとっては大問題でした。私たち女の子だけのバンド「レ・フィーユ」は、日本の文化系クラブ活動にありがちな体育会的ノリからはほど遠く、なんともぐうたらでわがままなバンドでしたが、そのおかげで長続きしたのか、棚ボタ式に後夜祭のトリをつとめることになりました。やったね。
(20号〜後夜祭の女王、そして受験〜より)


コモエスタプレス2003
1990年4月、晴れて私は芸大生になりました。
芸大受験を思い立ってから1年半。本格的に準備したのはわずか1年。「こんなんで合格しちゃって、ごめんなさい」と思わず謝りたくなるほど、まわりは一生をかけ、親子で力を合わせて芸大を目指してきた人ばかりです。ある意味で楽理科は、一生をかけずに、また親子で力を合わせなくても入れる可能性のある、数少ない学科なのです。
(21号〜〜花の芸大生〜より

芸大に入学して上野に体は運ぶものの、学校とは駅から反対方向の上野広小路に足が向かいます。日に日に授業からは遠ざかり、今はなきジャズ喫茶イトウに入りびたる毎日です。ジョン・コルトレーンやビル・エバンスが爆音で流れる中、ウェイターの耳元に「ミルクティー」とささやきます。あとは目を閉じて腕を組み、「芸術は爆発だ!」とかなんとか酔いしれていました。
(22号〜ニューヨークのピアノバーで〜より)

おかげさまで「私と音楽」も長〜い連載になり、気がつきゃ私もすっかり大きくなっていました。沢 知恵、19歳です。さあ、ここからが大変。何が大変って、事実を正確に思い出すのがよ。18歳くらいまでのことは、学年ごとに思い出が整理されていたり、くり返し家族や友だちに話して思い出を分かち合って来たので、そんなに混乱しません。感情的にもケリがついていることが多いです。
(23号〜家出とスカウト〜より)

二度目はちゃんと現れました。東京は南青山のレコーディングスタジオでデモテープを録るべく、重い足をひきずりながら出かけたのです。私のうたにひとぎきぼれしたという、音楽事務所ニックス・インターナショナルのD社長、私が高校時代に出たバンドコンテストで知り合った、ヤマハの新人開発担当のC氏、そして何人かのプロデューサーやテレビ関係者が、腕組みしながら、分厚いガラス越しにこちらをじっと見ています。いまだに慣れませんが、レコーディングスタジオって、ものすごく孤独なんです。窓の向こうでは、おじさんたちが何をたくらんでいるのかわかりません。向こうがトークバックボタンを押しくれないかぎりは、彼らが何を話しているのか、まったくきこえないのですから。まるで動物園のパンダ状態です。
(24号〜アーティスト契約と芸名騒動〜)


コモエスタプレス2004
あれから1週間。事務所のD社長から電話がありました。「ジョージ・デュークのスケジュールが空いてて、すぐにでも君に会いたいって。来週LAに行けるよね。パスポートは持ってるよね。」受話器から飛び出しそうな勢いのD氏は、「どうだー、ざまぁ見ろ」と言わんばかり。でも、どこかうれしくてたまらないというふうでした。(25号〜ジョージ・デュークと出会う〜より)

サラ・ヴォーンが生前うたうはずだった《Night Mood》のカラオケトラックをきいているうちに、心臓が縦横に激しく動くのがわかりました。メロディーはジョージがキーボードでなぞっただけのデモ・インストでしたが、それでじゅうぶんでした。今まできいたどんな音楽ともちがう幻想的な世界に、私はとらわれてしまったのです。ロマンチックで流れるようなメロディー、大好きな印象派を思わせる繊細なハーモニー、ワイルドなのにやさしいリズム。気がつくと涙で視界がかすんでいました。「ジョージ、これ私にうたわせて」ウルウルの目でお願いしたら、「いいけど…音域は大丈夫かなー」。微笑みながらもちょっと心配そうなジョージ。当時絶対音感を持っていた私は(その後わけあって半分なくしました)、すぐにその場で声を出してチェック。なんと私は、サラ・ヴォーンとまったく同じ音域の声を持っていることがわかったのです。こうしてアルバム最後に収録されることになった《Night Mood》は、サラ・ヴォーンのトラックを無修正のまま使うことになりました。
(26号〜デビュー・アルバムの完成〜より)

「ぼくの秘書にならないか。」デビュー・アルバムのレコーディングを終えてロスを離れるとき、ジョージ・デュークは半分本気で私をスカウトしました。譜面が読めるなど音楽的なことがわかりながら(アメリカのミュージシャンは読めない人が多い)、人あたりのいい私(当時はすこぶる!)がそばにいたらどんなにいいだろう、と思ったのだそうです。身にあまる光栄ではあったけれど、丁重にお断りしました。だって私は、これから日本でデビューする「将来有望」なアーティストなのですから。
(27号〜歌手デビューとNHK新人歌謡コンテスト〜より)

デビューして半年後の1992年春、東京芸術大学音楽学部楽理科に復学しました。1年間の休学は、レコーディングのため仕方なく取ったものでしたが、結果的に、何のために芸大に入ったのか、距離を置いて考える貴重なときにもなりました。入学するやいなや学校に失望してしまった私は、友だちに会う以外、もはや学校に行く意義を見出せませんでした。じゃあ、そのまま退学してしまえばよかったではないか。そう言われるかもしれません。
(28号〜復学とラジオ三昧〜より)


コモエスタプレス2005
「沢さんのラブソングには、いつも別れの予感があるのはどうしてですか?」とたずねられることがあります。そうかもしれません。だって哀しいじゃん、愛って。苦しいじゃん、恋って。なーんてことを言う余裕は、21歳の私にはありませんでした。すべてではないけれど、私のつくるうたの多くは、自らの体験に基づいています。19歳から25歳まで大恋愛したB君との間には、いつもどこかに別れの予感が漂っていました。(2005年春号〜つらい恋愛からうまれたラブソングたち〜より)

前号の特集「アルバム〈いいうたいろいろ5 英語のいいうた〉を100倍楽しくきく方法」を読んでお気づきの方もいらっしゃると思いますが、これまで「私と音楽」にたびたび登場しているフリー・プロデューサーE氏と、現在もプロデューサーとしていっしょに仕事をしている澤田信二氏は、同一人物です。というわけで、ややこしくなりますが、今後は「E氏」ではなく実名で登場します。澤田さん、昇格おめでとう!?私のCDジャケットをなめるようにご覧のマニアなみなさんは、澤田信二という名前をしょっちゅう見かけていることでしょう。デビュー前から私の将来性に目をつけ、アルバム〈トモエ・シングス〉のプロデュースにかかわり、その後つかず離れずの時期を経て、95年以降、私のすべてのCDをプロデュースしています。「私と音楽」では、これから「つかず離れずの時期」に入るので、しばらく澤田さんはお休みです。ばいば〜い!
(2005年夏号〜アルバム〈ブラック・コンプレックス〉とデビュー・ライブ〜より)

「東京芸大で私がどんな授業を受けていたか、興味ある?」スタッフにたずねたら、「あります、あります」と思いのほか反応がよかったので、まとめてみることにしました。いままでさんざん「芸大には体を運んでいただけ」だの「居場所がなかった」だの、文句ばかり書いてきたけれど、いざひとつひとつの授業を思い出してみると、楽しい瞬間もたくさんあったことに気がつきました。それどころか、いまの私の音楽をかたちづくる上で決定的ともいえる小さな出会いの連続でもあったことに、驚いてしまいました。1年間の休学も含めて、5年間在籍しただけのことはあります。
(2005年秋号〜芸大で学んだこと〜より)

ニューオーリンズをハリケーンが襲ったできごとは、他人事ではありませんでした。大好きで2度も訪れたあのまちが廃墟と化してしまった映像は、あまりに痛ましく、胸がはりさけそうでした。歴史的なカフェ・デュ・モンドはどうなってしまったんだろう。数あるジャズのライブハウスは。音楽家たちは。あの市場は。93年の夏、大学生だった私は、やはり大学生だった妹と妹の友人2人の計4人で、40日間かけてアメリカ縦断の旅をしました。ニューヨークでレンタカーを借りて、ボストンに北上し、そこから南下してニューオーリンズまで行くという、なんとも若者らしい大胆な旅です。
(2005年冬号〜ジャズから北朝鮮の音楽へ〜より)


コモエスタプレス2006

朝鮮大学校の図書館で、宝の山を掘りあてたように興奮した私は、かたっぱしからコピーしはじめました。目次をなぞる私の指があまりにも速く動くのをいぶかしく思った学生たちが、「あの日本人の子、ウリマル(朝鮮語)読むの、速すぎない?」と、朝鮮語でヒソヒソ話しているのを背中越しにきいて、やばい!とわざとスピードを落として読んだっけ。それもそうです。いくら北朝鮮に興味があるとはいえ、日本人の大学生が英語以外の資料をスラスラを読むのは、不自然でしょう。外語大の学生だって、3年生の時点で一次資料を難なく読める人は、そういないと思います。(2006年春号〜朝鮮民主主義人民共和国の音楽〜より)

1995年3月、晴れて私は東京芸術大学を卒業しました。卒業論文が優秀論文に選ばれたとはいえ、肝心の卒業ができるかどうか、実はぎりぎりまでドキドキものでした。何しろ必要最低限の単位しか取っていなかったのですから。しかも、最終学年に大事な教科をいくつも残してしまったので、卒業見込み予定者が発表される日は、入試の合格発表のときより緊張しました。まあ、だめだったら親にないしょでもう1年籍を置けばいいかな、くらいには思っていましたが。学費は自分で払っていたし、さいわいなことに、母は私の学校生活にはまったく関心がなかったので。(2006年夏号〜これから人生どうするの?〜より)

28歳まではおもに家庭教師で食べていた、収入の大半をそれに頼っていた、と言うと、「え〜?」と驚かれます。歌手デビューしたのは20歳のとき。26歳で有限会社コモエスタを設立し、翌年には韓国で日本国籍をもつ歌手としてはじめて政府の許可を得て日本語でうたい、日本レコード大賞アジア音楽賞を受賞しています。すでにメジャーのレコード会社から何枚もアルバムを発表して、ラジオのパーソナリティーもかけもちしていたはずのあの時期に、実は家庭教師で生活していたとは、ファンの方はびっくりするかもしれません。ということは、コモプレ創刊のころも?はい、そうです。夢は大切です。だから、当時は公には言いませんでした。でも、もうだいぶ時が経ったことだし、いいでしょう。10年以上にわたる家庭教師生活は、お金の面だけでなく、精神的にも過渡期にあった私を支えてくれた大切な青春の思い出です。 (2006年秋号〜家庭教師奮闘記〜より)

みつさん(平田光宏)とえいちゃん(間沢英二)のことを書こうとパソコンの前に座るも、なかなか指が動きません。二人との思い出は濃厚すぎて、その後じっくりふりかえることもなく突っ走ってきた10年。青春の忘れ物をしてきたような、ちょっとヒリヒリした感じがあります。みつさんとえいちゃんに対する感情をひとことで言うなら、家族以外で、これほどまでに信頼した人たちはいなかった、ということです。そんなすてきな人たちと、私にとって模索の期間であった約3年間いっしょに音楽をつくることができたことは、夢のような、宝物のようなできごとです。(2006年冬号〜みつ・えいじとの出会い〜より)


コモエスタプレス2007
ついに来てしまいました。コモエスタプレス10年。「私と音楽」10年。いつかこの日が来ることはわかっていたけれど・・・。あれ?おかしいな。もうちょっとつらい作業になると思ったのに、意外にちゃんと書けそうな気がする。あんまりしんどかったら、「読者のみなさん、ごめんなさい。やっぱり書けません」と涙でおわびするつもりでいました。そのためのネタまで考えていました。なのに、書けそう。どういうこと?むしろ、前号の方が筆の進みが遅かったくらいです。恋人との別れくらい、私にはたいしたことではないから?沢 知恵は薄情なやつだから?いいえ。他の恋ならともかく、Bくんへの思いは100%ピュアなものでした。一生に一度の恋とはこういうことなのだ、とはっきり言えるほどです。じゃあ、いまの夫の立場はどうなるの?と親切なツッコミが来そうだけど、既婚者のみなさんはわかってくれますよね。必ずしも恋愛イコール結婚ではないということを。(2007年春号〜25歳の別れ〜より)

今回は《こころ》のことを書きます。コンサートでは欠かさずうたい、沢 知恵といえば《こころ》をうたっている人、と言われるまでになりました。全国各地から、「コーラスでうたっています」とか「発表会で演奏しました」という声をたくさんききます。一度「結婚式の披露宴でうたいます」という方がいらして、あわてて止めましたが。だって、「あなたを離れませう」で終わるんですもの。私が詩《こころ》と出会ったのは、1995年のことです。大学を出る前後ではなかったかと思います。卒論に没頭して音楽活動をしばらく休んだのち、再びうたいたい気持ちが高まっていました。「なぜ人はうたうのか。なぜ私はうたうのか」。しばらく北朝鮮の音楽にどっぷりつかって残ったのは、そんな自問でした。デビュー以来、あきらかにアメリカ、ヨーロッパに向いていた意識が、一気にアジアに、それも自分自身のルーツである日本、韓国に向いているのがわかりました。日本でうたっていくには、一度ちゃんと日本語と向かい合う必要がある。そう感じてはいたものの、いわゆるポップスの中にはその答えを見出せず、悶々としていました。正直言って、かっこ悪いけど仕方がないから日本語でうたっていました。今となっては笑い話ですが、英語でうたった方がかっこいい、と本気で思っていたのです。(2007年夏号〜生涯の一曲《こころ》〜より)

1996年のお正月は穏やかでした。大学を出て1年が過ぎようとしていました。手探りで始めた東京吉祥寺でのライヴをまとめたアルバム〈フー・アム・アイ?〉がかたちになり、これから歌手としてやっていくんだという静かな高揚感がありました。生活は相変わらずで、家庭教師をしながら、母から見れば「ぶらぶらしているだけの恥ずかしい娘」でしたが、私としてはいまだかつてないほど地に足がついていました。話は前後しますが、Bくんとの別れも目前に迫っていました。当時教会の2階にあった実家(=日本キリスト教団豊島岡教会牧師館)で、母と妹の3人、水入らずのお正月でした。3人の共通した数少ない趣味であるジグゾー・パズル3,000ピースをやっていたときのことです。突然、「あ、今年は韓国でうたってみたい!」とひらめきました。ジグゾー・パズルは、ふだん使わない脳の部分を活性化させるときいたことがありますが、アルファー波が訪れたのでしょうか。ジャズを研究しようと思って入った芸大で、突然、「あ、北朝鮮!」とひらめいたときもそんな感じでした。ぼーっとしていたら、どこからともなく声がするのです。(2007年秋号〜ファースト・ライヴ・イン・ソウル前編〜より)

記念すべきファースト・ライヴ・イン・ソウルのクライマックスで、突然ステージ中央に杖をつきながら躍り出た老紳士。マイクの前に立ち、震えながら語り始めました。「私はいま感激している。友キム・ソウンの孫が歌手になって韓国でこうしてうたい、北朝鮮を思ううたをうたっている」。それはちょうど《シング・ユア・フリーダム・ソング》をうたった直後のことでした。あまりにも突然のことに呆然として、私は立ち尽くしてしまいました。老紳士が何を語ったのかもよく覚えていません。ひとしきり熱くしゃべって、会場がワーッと拍手に包まれたかと思うと、ヨロヨロと杖をつきながら歩いて、出口の方へと向かいました。なぞの老紳士の正体は、詩人の具 常(ク サン)さんでした。韓国では有名な詩人で、生前の祖父と親交があったとのこと。ご高齢にもかかわらず、この日わざわざライヴに足を運んでくださり、最前列に座って、感極まって思わず歩み出てしまった、ということでした。(2007年冬号〜ファースト・ライヴ・イン・ソウル後編〜より)
コモエスタプレス2008
デビュー以来つかず離れずのつきあいをしてきた敏腕フリー・プロデューサーの澤田信二さんが、突然私への好意を示したのが1996年の春。Bくんと別れてひとり暮らしを始め、吉祥寺のマンダラUを拠点に、一からライブ活動で出直した時期です。それはまさに青天のへきれきでした。え? うそでしょ? 正直に言って、戸惑いました。けっしてきらいな人ではありません。人間としては大好きな人です。やさしくて、頼りになって、困ったことがあれば、まずこの人に相談すればなんとかなる、と思ったものです。でも、21歳も年上の業界のおじさんは、恋愛対象としてはかぎりなく0%に近い存在でした。(2008年春号〜結婚〜より)

ちなみに、私は結婚しても働くことをあたりまえに思ってきました。共働きだった両親の影響でしょうか。母は10年間専業主婦をしたのち、大学院に入って牧師になったのですが、その10年間の屈辱をいつも口にしていたのを見て、「女も自活していないと」といつのまにか植えつけられていたのかもしれません。父亡き後も、わが家は経済的に困るどころか、かえって前より豊かな生活を送るようになったのは、ひとえに母の経済的自立のおかげです。澤田さんといっしょになっても、現在にいたるまで、いつも生活費は半分ずつ持つことをルールにやってきました。たとえ澤田さんが大金持ちであっても、そうしたと思います。現実には、いっしょになったころの澤田さんは何もかも手放してゼロからのスタートだった時期で、そうせざるをえなかったという事情もあります。でも、私たちの間に不公平感や悲愴感はありませんでした。あるのは、これから沢 知恵の音楽をどう確立し、広めていくかという希望だけでした。(2008年夏号〜結婚その後と有限会社コモエスタ設立〜より)

歌手デビューした20歳のころ、まさか自分で作詞、作曲するようになるとは思っていませんでした。シンガーであって、ソングライターではない。曲はプロの作詞家、作曲家がつくってくれるものと思っていました。私はただうたえばいい、と。アメリカでは分業があたりまえです。いわゆるシンガーソングライターもたくさんいるけれど、基本的には別の仕事。うたをつくる歌手とつくらない歌手の線引きがはっきりしています。つくらない人は、うたがうまくないと認められないし、つくる人は、歌唱力よりもメッセージや曲のよさが売りになります。日本はそのあたりの線引きが非常に曖昧で、猫も杓子も簡単に作詞、作曲して「アーティスト」になる傾向があります。そんな現象への嫌悪感や羞恥心もあって、才能も経験もない私が曲をつくることなど、ありえないと思っていたのです。(2008年秋号〜アルバム〈愛してください〉〜より)

父の病気によって、スイスの国際機関での仕事を辞めて帰国を余儀なくされた母。1年に満たない闘病を経て、私が高校2年生の春、父は亡くなりました。母は、父が赴任することに決まっていた東京文京区にある豊島岡(としまがおか)教会に牧師として就任し、その後8年の間に私と妹を育て上げ、あまりにも古かった礼拝堂と牧師館を建て直して借金を完済し、念願の世界放浪の旅に出たのは1997年のはじめのことです。母まだ48歳。やりたいことはできるうちにしなくちゃ、と意気揚々と出発しました。最初だけ妹を連れて、リュックひとつで中南米を旅することになり、数ヶ月経ったある日、珍しく電話がありました。ふだん母は、旅に出ると音信不通の人。よほどのことがないかぎり連絡はありません。(2008年冬号〜母のがんと妹の出産〜より